【ふと甦る「映画」の記憶】 2006.6.5の記事より
きょうはいろいろなニュースがあって、みなさんのなかにはわたしの感想なり所感を聞きたいと思っている人がいるかもしれないと思うけれど、きょうはあえてそうした話には触れないで、しばらく前に見たことのある映画の話をしておこうと思う。その映画というのはケビン・クラインとル・ハーシュ主演の「卒業の朝」という映画だ。細かなやりとりは正確に覚えてはいないが、テーマは「教師というものは生徒に、人生を変えることを教えられるんだ」というものだったと思う。
良家の子弟が集まる寄宿制のある名門高でひとりの教師が、上院議員の息子でカンニングテストを繰り返したり、うそとごまかしで一流大学へ進もうとする不孫な生徒の扱いと指導とに苦悩する。将来、社会のいろいろな分野でその中枢を占めることになるはずの生徒たちに、その過程で汚名を着せたり傷つけたりすることなく、伸ばしていかせたいと願いながらも、その教師の愛情も努力もその生徒にはなかなか通じない。
やがて生徒はそれなりの学業成績と父親の支援も得て、一流の名門大学へと進み、事業にも手広く成功して大金持ちになり、一方の教師も学長のイスに座るところまでいくのだが、教師の方はその「美徳と信念」を貫く姿勢に尊敬を集めながらも、学校運営のための政治力、根回しやカネ集めが下手だといって、教授会から学長の座を追われることになる。
そして20数年後、今は一教師に戻っている老教師と世に出て大成功を遂げている生徒が、その生徒の宮殿のような豪邸で開かれた同窓会で再会するのだが、この会場でもかっての教師と生徒としての「ある場面」というものが再現される。その生徒の提案で、今は法律家になっているかつての成績トップの生徒と自分との「公開テスト」を催して、長じてもどっちがナンバーワンの生徒であるか、パーティーのなかでの余興のひとつとして“再戦”しようという提案だった。そしてここでも、友人や家族の前で生徒はまた巧妙なカンニングを行なって、勝ってみせようと画策する。
司会進行役と出題者を兼ねたアルバイト学生のスタンドテープルと、自分の耳のうしろに隠した超小型マイクとを結び、問題の答えを秘そかに得ていくのである。ウソもごまかしも、なにをやっても自分が欲しいと思ったものは必ず手に入れる。そうすれば世の中では成功を収めていける。そこには年を経て、壮年の城に達し、分別のある大実業家と化してはいるけれど、高校時代とは本質的に少しも変わらない生徒の姿というものがここでも浮き彫りになる。
しかし、このカンニングもまた教師に知られることになって、2人っきりになったトイレの洗面台の前で生徒が「たとえ人に知られたくはない手を使ったとしても、自分は今もこうして社会に貢献できる仕事と地位とに就いている大成功者といっていいのではありませんか。しかし先生、教師には特別、社会に大きく貢献できるものがなにかありますか」とうそぶいてみせるシーンがある…とその時、誰もいなかったはずの一番奥のトイレから、生徒の長男である少年が静かに姿を現してくる。父親の正体をじっとみつめようとするかのような、その失望感をただよわせた少年の目と、他の人には、自分の家族には、特に自分の息子には絶対聞かせたくない、知られたくないことを口にしてしまった父親の顔色。
教師は「たとえ無名でも、あるいは一教師としても、社会や人間に役立っていることはあるものだけれど、キミにはそれが絶対にわからないだろう。不孫な人間の、この世での成功というものはざらにあることだ。しかし人生の最後にカガミに映る自分の本当の姿、というものを考える時がキミにもくるかもしれない」といい残して、この件もまたひとり自分の胸にたたんで学校に戻るのだが、この映画のテーマにそったシーンが最後の最後にやってくる。
数年たって、また新たに新入生を迎えたある日、遅刻すれすれに息せき切って教室に飛び込んできて、名前を名乗ったひとりの生徒があの生徒の息子だとわかるのである。教師が人の視線を感じて、ふとガラス戸越しに廊下の人影に目をやると、そこにあるのはひっそりと立って、息子が教室にすべりこむのを見届けてから、教師に小さく会釈して立ち去るのは父親である、かってのあの生徒のうしろ姿だった。この時の、すでに父兄になっている彼の安堵した、満足そうな横顔がこの映画の「答え」でしょう。
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